自由に生きて、押し付けず、背中で語る、そんな人生って良さみ
昔から、教師というものが苦手だった。
いや、教師というよりも「人に教える・説く」タイプの人間が合わないんだと思う。技術的・学問的なことならいいんだけど、道徳とかこころとか、そういったものを語る人が今も苦手だ。
どうしても、「そんなことは誰でもわかってるよ、でも言われてもどうしようもない」とか思ってしまう。要するに、人間的にどこか曲がってしまっているらしい。
そんなんだから、学校の内申点はいつも悪かったし、恩師といえるような人も思い当たらない。
ただ一人だけ、妙に印象に残っている先生がいる。
僕の高校で世界史を教えていた、中村先生だ。
高校の同級生から久しぶりに連絡があって、ふと思い出す。
中村先生は、良く言えば個性的な、悪く言えば変わり者だった気がする。
ジャージ姿の教師たちが多い中、いつもジーンズに綿のシャツを着ていた。
銀縁眼鏡を掛け、白髪をオールバック気味にしたその風貌は、ぱっと見て気難しそうな頑固親父だったのだけど、先生が誰かを叱るところをみたことがない。
体育館につづく通路にある自販機でよくコーヒーを買っていて、通る生徒に挨拶をされると、おう、と一言だけ返す。そんな先生だった。
先生の授業もまた、独特だった。
とにかく、板書が多い。よく喋る。たぶん好きな箇所なのであろうところでは、一段と声が大きくなる。授業というよりは、世界史好きなじいさんの一人がたりという感じだった。
そして、誰かが喋っていても気にしない。怒ることもない。といっても、みんな板書をノートに取るのに必死なため喋る余裕はなかったけど。
普段はノートを取らない僕でも、先生の授業はノートを取った。テストが難しいからだ。あれだけノートを取らせておいて、成績はテスト一発で決まる。清々しいくらいに生徒の頑張りとか、授業態度には無関心なやりかただったと思う。
ちなみに、みんながノートを取っていたのは別に言われたからではない。みなが自主的にノートを取った。その板書量と生徒への無関心さに「たぶんテストが成績の全て&絶対にムズい」という認識を共有していたからだ。
後にも先にも、真面目にノートを取っていたのは中村先生のときだけだったと思う。
一番印象的だったのは、ブルガリアの話だ。
その時は僕のクラスは4限目の数学で(僕の高校では4限目はお昼の後だった)、確率だの何だのという内容だった気がする。眠かったしあんまり覚えてない。数学には興味がなかった。
廊下側の席で黒板に答えを書く友達の後ろ姿を見ていると、廊下の向こうから「ブルガリアってのは、とんでもねぇ国なん!!」という声が聞こえた。隣のクラスでは世界史をやっているらしい。
上にも書いたけど、先生は盛り上がってくると声がデカい。それこそ、昼過ぎでやる気のないクラス内には響く。隣のクラスまで聞こえるのもしかたない。でも、その続きは聞こえなかった。余計に気になる。
何はともあれ、僕たちは「どうやらブルガリアってのはヤバいらしい」とか言いながら迎えた中村先生の授業、まさにその、ブルガリアの部分だった。
一体どんな国なんだ、ブルガリアは、拷問とかそんな話だろうか、そんな期待をよそに、先生はブルガリアについて軽く触れるだけで授業を終えた。え、ブルガリアは?拷問は?ひどい肩透かしをくらった。
つまり、先生は単にその時テンションが上がってブルガリアを「とんでもねぇ国」と言っただけだったのだ。別にブルガリアはヤバい国ではなかった、ただの風評被害だった。
でもそのとき、僕は思った。この人、めっちゃ自由に生きてるな、と。
特に生徒に向き合うわけでもない、授業は自分の好きなことを好きなようにしゃべる。
周りの先生が道徳だ、校則だ何だと言っている中、昔は不良のシンボルであっただろうジーンズ姿で、我が道を進んでいる。
中村先生は、きっと背中で語る先生だったのだ。
その自由な生き様を見せて、教えず、押し付けず、お前らの好きなようにやれ、そんな先生だったのだ。
人と向き合って、色んな人に慕われて、囲まれる人生も悪くない。むしろ、普通に考えたらそれこそが「幸せ」ってことも知ってる。
でも僕は、中村先生の生き様に魅力を感じてしまう。自分勝手で、自分の前だけを向いて、その背中で大切なことを教えるような、そんな生き方に。
ここまで書いて、ああ中村先生めっちゃ死んだ人みたいになってるって気づいた。たぶん、まだ生きてると思う。あの頃から10年くらい経つし、そのころで50歳くらいだったからもう退職してるかもしれない。
たぶんもう会うこともないだろうけど、きっと自由に、好き勝手にやっていると思う。
そんな人生、そんなじいさんになりたいもんだ、そう思いながら25回目の夏、茹だるような暑さの8月を広島で迎えている。